「仙台舞台芸術フォーラム」インタビュー
なかじょうのぶ(劇団三ヵ年計画)
インタビュー・編集:谷津智里
旗揚げ公演の前日に被災
(「徒然だ」2015年栗原公演 )
谷津 なかじょうさんは宮城県栗原市のご出身ですが、20代から30代の半ばまでは東京で劇団韜晦(とうかい)工房舎を主宰していらっしゃいました。36歳で栗原に戻って来られて、一人芝居をしながら仲間を集めて、満を持して劇団旗揚げ公演をしようという時に震災があったんですよね。震災が起きた時のことをお聞かせいただけますか?
なかじょう ちょうど旗揚げ公演の前日で、地元のコミュニティセンターで最終リハーサルをやっている時でした。あんなに大きな被害が出るとその場では思っていなかったから、「明日できるのかなぁ」なんて考えたり、天井裏の照明の心配をしたりしていた。揺れはかなり大きかったから、各自自宅を確認して、何もなければ夕方戻って来て稽古の続きをしようといったん解散したんですが、誰も帰って来なかった。後で分かったことですが、劇団員のうちの二人の家が全壊の判定でした。僕は稽古場で待ってたんですが、市役所の方が来て「大変なことが起こったみたいだ」って繰り返し言ってて。まだ津波のことは知らなかったけど、ひょっとしてこれは、自分が想像している以上のことが起きているんじゃないかと感じていました。次の日、スタッフがなんとか現場に行ったけど、会場も停電してるし、公演は全面的に中止となって。2、3日して、だんだん様子がわかってきた感じでした。
谷津 やろうとしていた旗揚げ公演についてはどう考えられましたか?
なかじょう 表現するというのはお客さんがいてなんぼの世界なので、公演が出来なくなってお客さんのことをすごく考えましたね。日常がどこまで戻ると非日常を見せていいのかというのは、すごく戸惑いました。「避難所で毛布を被ってる人たちの前でやっていいの?」って。それは劇場における通常の観客論じゃなくて、ひょっとしたら本当の観客論なんじゃないかと思います。自分たちが表現するってなんだろう、ってね。
谷津 その時期を経て、9月に仕切り直しの旗揚げ公演をされていますが、その間に考えの変化みたいなものはあったんですか?
なかじょう 被災した人たちの感情を開放しなくちゃいけないというのは考えていました。公演ができなかったとき、被災地の小学校に何度か読み聞かせをしに行ったんですが、海は綺麗なんだけど、通学路は山のような瓦礫の中を歩いてくるんです。その子どもたちの中に蓄積される心象風景ってなんだろうって。白黒の風景を登校してきた子どもたちに、一つの安全と言われる場所(学校)ではもう開放されていいんだよって伝えるために、表現には力があるんじゃないのかなって思いましたね。僕らが読む話を子どもたちが聞くことで、笑ったり、泣いちゃったり、どんな反応をしてもいい。昔見たものが違って見えてもいいし、欠損した部分があってそれを大きい声で悲しんでもOKだし、やっと美味しいご飯が食べられるってゲラゲラ笑って喜んでもいいし、みたいなね。宮沢賢治の童話なんかを読んだんだけど、その時、「聞かせる」んじゃなくて「伝える」んだよなって思いました。お話を伝える。「聞かせる」だと「聞いてますか?」になっちゃうけど、「伝える」っていうのは伝わんなくてもいい。その子が聞いたのものが、その子なりの色に伝わったなら、それでいい。これから芝居でも朗読でもなんでも、聞かせるんじゃなくて伝えるって気持ちを持ちたいなぁと思いました。震災があったからというより、震災後のそういういろんな体験の積み重ねで、自分の表現が微妙に変わっていったっていうのはありますね。
震災の経験を経て変わったこと
(「徒然だ」2015年栗原公演 )
谷津 もう一度旗揚げ公演をやろうと集まった時、俳優さんたちにも変化を感じましたか?
なかじょう 震災前とはかなり違いましたね。言葉が丁寧になりました。台詞を鵜呑みにせずちゃんと聞いて、キャッチしてから喋ってる。三カ年計画ってほんとに一から作った劇団なので、「高校演劇以来舞台に立ったことありません」という人もいて、8割がた初舞台みたいな状況で練習してたんですけど、5月、6月と一緒に被災した学校を回ったりして、7月、8月頃から生活のリズムもできてきたので「公演できるように稽古だけはやっとこうか」って稽古を再開したら、台詞がただの台詞じゃなくてちゃんと言葉になっていた。「すごい、役者になっちゃった」と驚きました。劇団員も、「伝える」ということを無意識のうちに考えたのかな。
谷津 なかじょうさんご自身の演出に影響はありましたか?
なかじょう 極端に言うと、あまり説明をしなくなった。「この言葉はこういう感じなんじゃない?」とか、「こういう意図で書いてるんだよ」ということを言わなくなりましたね。そっちの方が面白くなったというか、こっちがあえて狭めることはないんだなと。本人が言葉をどうやって消化するかを、待って、見ていればいいんじゃないかと思うようになりましたね。
谷津 なかじょうさんご自身の中では何が変わったんでしょう?
なかじょう どうなんでしょうね。何か直接的な原因があったわけじゃなくて、0.0何ミクロンの積み重ねみたいなものがうすーくうすーく堆積した結果、変わったような感じはあります。3.11以降に見た風景が堆積していったのかもしれないし、マスコミで見聞きした情報も堆積していったのかもしれない。例えば震災後に海辺で波の音を聞いたときに「この静かな波があんな風景を作ったのか、この波の音が」と。「この音が複数固まっちゃったからたまたまああなったのかな」とか。そういう、ふと思ったことが堆積していく。自然の音はすごく気になるようになりました。3.11の夜ってすごく静かで、すごく星の音が聞こえて。星に音があるはずもないのに聞こえて、雪の音も綺麗に聞こえて。あの瞬間からかなぁと思ったりもします。あの日夜中に外に出て、冷たい風にも音があって、雪にも音があって、闇の音もすごく感じた。そういう音が残響として残っている感じがある。
谷津 あの時、それまでは見えていなかったものが見えたり聞こえたりして、日常に戻ってもそれらの存在は消えていないと。
なかじょう あれからいろんな本が出版されて、東北の幽霊のことを語ったものなんかもありますが、そういう存在を否定しなくていいんじゃないかと。その方が日常に一緒にいられるんであれば、幽霊でもいいんじゃないかって。ひょっとして自然の中にあるものというのは、そういうふうになっているのかもしれない。かかってこないはずの電話が鳴るのは機械の誤作動かもしれないけど、誤作動も認めていかないといけないみたいな。たまたま友達に曹洞宗のお坊さんがいて、そいつなんかは宗派宗教取っ払っちゃって鎮魂しようって、キリスト教も仏教も神道も関係なくみんなで三陸の海を歩いたりしてるんですが、そいつなんかと話してると、「突然いなくなっちゃう」っていうことを無理やり押し込める必要は無いんじゃないかって。突然いなくなった方も、四十九日で成仏する作法を知らないかもしれないし、いてもいいんじゃないのって、そいつは言ってた(笑)。
谷津 生きている人も亡くなった人もみんなで一緒にいる、ということなんですね。
時間の経過とともに生まれた三部作
(「徒然だ」2015年栗原公演 )
谷津 今回ドラマリーディングで再演される「徒然(とぜん)だ」という作品は震災のことを描いていますが、それ以前にも震災のことを扱った作品を作られているんですか?
なかじょう 「徒然だ」は三部作の二番目なんです。その前が「異へ 其の弐」で、三つ目が「踊駄黙考(おだずもっこ)」。「おだず」は方言で、茶目っ気のある悪ふざけみたいなこと。おばあちゃんが、子どもが悪ふざけをすると「おだずすな」と言ったりします。
谷津 震災のことをテーマにした三部作を2013年から、2015年、2017年と一年おきに公演されたんですね。
なかじょう 仕切り直しの旗揚げ公演は「見上げれば故郷は見えたか」という題名だったんですが、実はもともとは「海底から故郷は見えたか」というタイトルだったんです。太平洋戦争末期に潜水服を着た兵士が米軍の船の底を棒付きの機雷で突いたという、特攻作戦の「伏龍」がテーマだったんですね。その人たちがもし生き延びていたら、今90いくつになって、何を考えているだろうっていうところから作った話。でも3.11があって、さすがにこの題名はまずいだろうとなって。内容は変えずに題名だけ変えて、台詞も、津波を想起させるような言葉は全部削って書き直しました。その作業をしながら「この言葉はどうなんだろう?この言葉はどうだろう」って考えていたら、紡ぎだしちゃったのね、次の作品を。旗揚げ公演が終わった後に、次に書くべき言葉が溜まっちゃっていた。それでそのまま「異へ 其の弐」が出来たんです。そうして「異へ 其の弐」をやった後、また時間が経過するとともに、本当に一番最初に体感したものが減退していっているんじゃないかとか、いや逆に大きくなっていっているんじゃないかとかってことを感じて、そういう、時間の経過に伴う葛藤とともに「徒然だ」は生まれてきましたね。
谷津 では最初から三部作の予定だった訳では無いんですね。
なかじょう ないです。3.11からだんだんと時間が経過していく中で、1年経ったから洗い出されたもの、2年経ったから洗い出されたもの、あるいは逆に失ったもの、というのを感じていって、「ああ、2年後の今はこれを表現しないといけないな」みたいな感じで作っていました。それで結果的に三部作になった。
谷津 なるほど、そうなんですね。それぞれどんな作品なんですか?
なかじょう 「異へ 其の弐」は簡単に言うと、地球外生物はあの震災をどう見ていたのかという話。実は地球の外にいた者たちには予知できていて、さまざまな形でシグナルを送っていた。3.11の前に魚の異様な行動が見られたっていう話がいろいろありましたよね。ああいうのはひょっとして、自然が警告を発していたんじゃないかと。物語的には馬鹿馬鹿しいんだけど、火星人は地球に来るとタコになるからみんな食べられちゃって、伝達できなかったっていう話(笑)。でも実は、それなりに聞くべき耳を持ってる人にはシグナルは届いてたんじゃないかと。「徒然だ」は文明に対する問題提起。今は携帯とか電波とかあるけど、ひょっとしたらそんなものが無くても心が通じる方法を原始時代の人たちは持っていたのに、文明を得る代わりにそれを捨てることになったというような。「踊駄黙考」は、山形の出羽三山の辺りに、小さい頃に亡くなった子を、生きていたら20歳を過ぎる年に写真同士で結婚させる風習が残ってて。他の地域でも、生きいたら25歳になる年に人形と結婚させるとか、いろんなのがあるんだけど。つまり、亡くなってしまったけれど、その後の記憶を生きてる側が作ってあげる。栗原の「風の沢ミュージアム」って、山の中の小さい美術館にあるカフェで上演したんですが、ガラス越しに急流が見えるんですよ。その急流の山を、花嫁衣裳を着た子たちが登っていくっていうラストなんです。どこまでも、幸せになる夢は見ていいと。
谷津 今回上演される「徒然だ」は、作品を指定して依頼されたんですか?
なかじょう いえ、三部作のどれかをやってくださいと言われて、その中だと一番直接的に震災のことを語っているのが「徒然だ」だと思ってね。墓標が出てきたり、津波で亡くなった孫のことを「ナミオ」と呼ぶとか。
谷津 初演版を再構成されていますが、2015年の初演からどのような変化がありますか?
なかじょう 初演より30分くらいカットしています。当時はもっと直接的に3.11のことを語るシーンがあったけれど、2020年では要らない言葉になっているものがけっこうあった。初演の時は、3.11より前におばあちゃんとトシカズ(ナミオの本名)が遊んでいるシーンがあったり、主婦3人の会話でリアルに3.11を説明したりしてたんだけど、それは5年経って、もう言わなくてもわかる共有事項になっているんじゃないかと。劇中で童話の世界にふっと入り込んじゃったりしますが、導入部分というか「ホップ」「ステップ」が無くて、いきなり「ジャンプ」させてるんですね。2015年だと、童話に救いを求めるみたいなことを日常会話として語らせたけれども、今やるんであれば、それももう了解済みなんじゃないかと。ジャンプを見せればホップステップも見えるようになったんじゃないかと思って。そうやって、要らないと思うところをカットしましたね。
谷津 2015年の時点ではまだ、あえて語る必要があったと。
なかじょう 当時だとまだ、(被災した人が)やっと復興公営住宅に落ち着けたとか、やっと新しい家が建ったような頃だったから。今はもう、目に見えるところでは震災の影響というのはほとんど無くなっているしね。それに、これだけいろんなところで水害が起きてくると、3.11を語るだけじゃなく、もっと普遍的な言葉で表現していかなきゃいけないなとも思う。3.11をみんな「異常だ」と言っていたけど、そうじゃなくて、どの災害の場所でも通じる言葉に変えていかなきゃいけないんじゃないのかというのはあります。
谷津 お話をお聞きしていると、なかじょうさんの作品のテーマは3.11以降、直接的にせよ間接的にせよ、災害のことや震災のことを扱い続けていらっしゃることが分かります。
なかじょう そうですね。やっぱり、体感したものを「記憶」にするのではなくて、隣に抱えて持っていかなきゃいけないかなって。震災の場にいた者の責任とか大げさなことは考えないけど、体感してしまった者としてすっかり過去にはできない感じはあります。生きてきた途上で起きたことは全部ひっくるめて自分だから、3.11という枠で囲うこともできなくて、自然に自分の中に持っているのは感じてます。もう逃げられないんだな、みたいな。被災した人たちのために、とか思っているわけじゃないけれど、いまだに行方不明者がいるということは、地続きの土地で生きている者とすれば引き受けていかなければいけない。行方不明者の最後の1人が見つかるまでは、という気持ちもあるし、もう逃げられないんだからそれでよしとするか、みたいな感じもあります。
谷津 なるほど。三部作を経て、2019年には「失念」を上演されました。「失念」は、直接的に震災のことは出て来ませんが、「忘れる」ということをテーマにしていて、震災を想起させる部分があります。
なかじょう うん、続いてるよね。匂いとしては同じものを持ってる。三部作が終わった後にひと呼吸置いて作ったんだけど、言わなくても役者の方が意識しているのを感じました。「記憶」という言葉とか、「経験したことを忘れてもいいんだ」っていう言葉は、やっぱり意識の底辺には3.11のことを置きながらしゃべってるみたいなね。でもそれがお客さんに伝わったかというのは、「聞かせる」じゃなく「伝える」でいいんじゃないかと思います。カメラの角度を変えても、まだどこかで行方不明者に気持ちがあるというのは、公演が終わってから気づいたことでもありますね。行方不明者が0になるまでは、言葉の色に自然に出ていくんじゃないかと思います。
(2019年12月18日 仙台)
なかじょうのぶ
1983年より独人芝居を始め16作品上演。1998年独人芝居『カイゴの鳥』劇作家協会新人戯曲賞受賞。2002年度宮城県芸術選奨受賞。2005年『木製家族』第三回近松賞最終候補作品。2010年劇団三ヵ年計画結成。2011年旗揚公演リハーサル中、東日本大震災に遭う。令和元年『vol.6失念』吉野作造記念館風の沢ミュージアム、せんだい演劇工房10-BOXにて上演。